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時系列切り貼りって言ったのに前回前々回が続きものだったので、
ぐわっと巻き戻してみたりしました。ぐわっとな。
何か微妙な臭いはきっとコミケの弊害だと思います。ぐわっとな。
──明日になれば何てことはなくて、拙者はまた何時も通りに野を駆けるのですよ。
深く暗い穴の中でファニィ・ラビットと名乗る兎はそう呟く。私はそのページが何だかとても怖くて、何時もすぐに次へと進んでいた。
窓の向こうでは新緑の梢が揺れている。少し風が出てきたようだ。手元の漫画本を机の中に仕舞い、机に頬杖をつきながら外の景色を眺めてみた。降り注ぐ日差しはガラス越しにも暖かく感じるけれど、窓を開けるにはまだ少し肌寒い。
教室の中はどこも賑わいに満ちている。目につく表情がどれも楽しそうに笑って見えるのは、私がそれだけつまらなそうな顔をしているということだろうか。それともみんな、本当に楽しくて笑っているのだろうか。もう一年も一緒に過ごしてきたクラスメートの顔、それをどう見たら良いのか私には今となっても解らないままだ。
溜息を吐いて、また机の漫画本を引き出す。──ファニィ・ラビットの戦国パニック。表紙には古風な字体でそう記されている。教科書以外で、私が唯一持っている本だ。
ちょっとだけ悪戯で、ひねくれていて、だけど何故かみんなから愛されている。そんな、幸せな物語だ。その兎は狭く区切られたコマの中でも元気に駆け回り、色々な騒動を引き起こす……のだろう。シリーズ物らしいけれど、私はこの一冊しか読んだことがないから想像で補っている部分も多い。
ただ、私が読む限りにおいて、この兎は間違いなく幸せだった。
さっき閉じたばかりのページを手探りで開き、続きを読み進める。おかしなちょんまげのカツラを被ったファニィが、悪い盗賊の掘った落とし穴から救い出される場面だ。ファニィは助けてくれた猫と蛙の友達に泣きながらお礼を言う。二人の友達は、笑いながら兎が今までにしてきた悪戯を許してくれる。
もう何度も読んでいるせいで台詞や背景の細かな部分まで頭の中に入っていた。ここから先は戦国時代のお侍に助けてもらって、悪い盗賊を退治するシーンに続く。
古びたスピーカーから授業の始まりを知らせるチャイムが鳴り響いた。ここから楽しくなるのに。罅割れた音でがなるスピーカーを睨み付け、私は今しがた取り出したばかりの漫画本を再び机の中へと片付けた。
勉強は苦手だけど、嫌いじゃない。退屈じゃない、それだけでも十分だった。鉛筆を手に、黒板に書かれた数式をノートに書き写す。周囲からはひそひそと小さな声での内緒話や、私と同じように板書を取るシャープペンの音が聞こえてくる。
なるべく姿勢を低くして、目立たないように心掛ける。数学は特に苦手だったから、正直なところ今進めている範囲で当てられても答える自信が無い。
別にそれで恥をかくことが嫌なわけではなくて、そうして隠れていることが楽しいのだ。例えば漫画の中に出てくる忍者だとか、そういう者になった気がしてくる。ファニィ・ラビットも言っていた。楽しいことが無いのなら、楽しいことを作ればいいのだと。これは授業中の四十五分間を使ったかくれんぼだ。先生が私を当てれば先生の勝ち、当てられなければ私の勝ち。
そして今日も、この戦いは私の勝ちで終わるんだ。
* * *
夕焼けに染まる廊下の途中で、不意に名を呼ばれて振り返る。そこには見覚えの無い男子生徒が立っていた。上履きの色を見るに三年生だろうか。高い背丈に広い肩幅、日に焼けた肌の色、目に映る全てから健康的な印象を受ける人だった。
これといった接点の無い相手に呼び掛けられて、遊園地のチケットを手渡される。まるで恋愛漫画のワンシーンのようだった。道端に捨てられていた少女コミックの一ページを思い出す。
彼は少しぶっきらぼうな口調で約束の日時を告げると、私の返事も聞かずに走り去っていく。大きな背中が小さくなって、廊下の向こうで角を曲がり消えた。
手に握らされたチケットを見て、何の冗談だろうかと考え込んだ。首を捻りながら下駄箱へと向かう。その途中、ふと窓に映る自分の顔を見た。そこで初めて、にやけていることに気づく。何ていう顔をしているんだ。おかしくなって、つい吹き出してしまう。
何を着ていこう。約束の日は晴れるといいな。遊園地についたら何に乗ろうか。お小遣いの前借りは? 料理は苦手だけど、おにぎりぐらいでも作っていった方がいい? 初めてのことだらけで頭の中を幾つもの考えがぐるぐると駆け回る。気づけば足取りも浮ついていた。
去り際に見た、はにかんだ表情の口許から覗く白い歯が、寝るまでずっと頭から離れなかった。
それから二週間ばかり、漫画の台詞を追うよりも彼と話していることが多くなった。学年も習慣も違うから共通の話題を見つけるのには苦労したけれど、それでもとても楽しかった。用意された台詞と違って、幾らも予想しない言葉が返ってくる。私はその間、笑ったり考えさせられたりと本当に忙しかった。
日を追うごとに、約束の日が待ち遠しくなった。あまりはしゃぎ過ぎて子供みたいだと思われるのが嫌だったけれど、結局遊園地に行ったらどうしようかとばかり尋ねていた気がする。同じ話題ばかりの私にも、彼は嫌な顔一つ見せず、一緒になって予定を考えてくれた。そんなことが、とても嬉しく感じられた。
一日。一日。私の部屋に飾られているカレンダーの日付に印が付けられていく。あと四日。あと三日。こんなに何かを待ち遠しく感じたのは、随分と久し振りだった。
目の前に灰色のカーテンが揺れる。天気予報では晴れると言っていたのに、全く信用ならないものだ。昼過ぎ、急に降り出した土砂降りの雨が遊園地に集った人達をあちらこちらへ散らしていく。
水滴が乱暴に地面を叩く。鉛色の空から降る雨粒は銃弾のように硬く、容赦無く私の頬や肩を打った。雨の降り始めには他の人達と同じように屋根の下へと逃げてみたけれど、私はまたこうして、空が晴れていた時と同じように待ち合わせの場所に立っている。
傍に立つ時計塔の針を見上げてみる。待ち合わせの時間からは二時間が過ぎていた。何かあったんだろうか。そういえば、連絡先を聞いていない。どうして聞かなかったんだろう。耳や髪が濡れるせいか、頭が重い気がする。まともに思考が働いてくれない。
ジェットコースターに乗って、お化け屋敷に入って、それからバーガーショップで軽く腹ごしらえ。食休みに軽く遊歩道をぶらついて、最後は観覧車の天辺からこの街を見下ろしてみようか。夢に何度も見た、彼の話してくれた今日の予定を思い返す。
どうしたんだろう。何かあったんだろうか。今からだと、まず昼食を先にしなければいけないかな。そういえば連絡先を聞いていない。雨の雫が強い風に煽られて私の頬を叩く。傍に立つ時計塔を見上げてみた。頬を雨粒が伝って落ちた。
もう、待ち合わせの時間から二時間が過ぎていた。
* * *
月曜日の校舎には気だるさと賑やかさが半々に見られた。廊下を歩く私の目に人だかりが映る。何かと思えば、雨の遊園地の写真だった。大して面白いものでもないだろうに、みんなして楽しそうに笑っている。
別に何をされたわけでもない。長く雨に打たれていたせいか熱っぽく感じるぐらいだ。それから、借り物のコートを汚してしまったせいで散々に蹴られた脇腹がまだ少しだけ痛む。でも別に、何をされたわけでもない。期待していたことも、それ以外のことも、何も無かったんだ。
火曜日の通学路は昨日よりも騒々しく感じられた。夜から降った雨の名残で、足下には点々と水溜りが広がっていた。春先だけれど、まだ少し風が冷たい。それなのに街路樹を植える作業員の人達は、みんなして汗だくで袖を捲り上げていた。
後ろから誰かにぶつかられる。手にしていた漫画本を取り落とす。泥水が跳ねて、靴の爪先を汚した。水溜りの中で、おかしなちょんまげのカツラをつけたファニィ・ラビットの顔が歪む。
歩きながら本を読んでいた私も悪いんだから。馬鹿みたいに浮かれていた私も悪いんだから。離れていく広い背中を追い掛けて、自然と足早になっていた。頭は良くないけれど、運動はそれなりに得意なんだ。街路樹を植える工事の横をすり抜ける。広い背中を追い掛けて、何時の間にか握り締めていた大きなスコップを振り上げた。背中の方から、作業員のおじさんの怒鳴る声が聞こえた。
水曜日の朝はとても寒かった。石造りの壁、石造りの床、目の前には鉄格子。毛布の一枚も無いから、暗い穴の隅っこで膝を抱えて丸くなっていた。
「明日になれば何てことはなくて、拙者はまた……」
何てことない明日なんて、どうすれば信じていられるの。
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